ブラジル佛立宗のコレイア師に紹介されて、当山の所属としてお預かりしている水野ジョナタン君が新聞に載りました。とても良い記事です。ぜひお読みくださいませ。合掌
『野球で「東京」へ 3世の夢』
読売新聞 2016年7月21日
南米初となるリオデジャネイロ五輪(8月5日~21日)が、まもなく開幕する。コーヒーやサッカーなどブラジルを象徴する文化やスポーツは日本にも根付いているが、両国交流の歴史を築いてきたのは100年余り前、地球の反対側に渡った日本からの移民と、その子孫たちだ。そんな“遠くて近い”両国の関係者が、「リオと東京」という二つの五輪に特別な思いを寄せる。
浜松市内にある高校のグラウンド。照明の下、野球のクラブチーム「浜松ケイ・スポーツBC」に所属する水野ジョナタン正一さん(20)が週2回、チームメイトと一緒に練習に打ち込む。
ジョナタンさんは2014年3月、ブラジル・パラナ州クリチバから日本に来た日系3世。平日の昼間は楽器工場で派遣工員として働きながら、夜はグラウンドやジムなどに向かう。
ブラジルでは、地元のクラブチームに中学生から参加。12年には全国大会で優勝し、大会の「ベスト・ピッチャー」に選ばれたこともあるが、サッカーの盛んなブラジルでは将来、プレーする場が限られてくるのは、わかっていた。「野球が盛んなおじいさんの祖国・日本でプロになりたい」
その祖父は、1908年に781人の日本人を率いて海を渡った高知県出身の実業家、水野龍氏。ブラジルへの日本人移民の歴史は、この第一陣を乗せた移民船「笠戸丸」の航海から始まり、水野氏は「ブラジル移民の父」と称された。そして、ジョナタンさんの来日は、没後60年以上が過ぎた水野氏が導いた。
出身地の同県佐川町とホームタウン協定を結ぶ野球の独立リーグ傘下の高知ファイティングドッグスが、ジョナタンさんを練習生として受け入れ、生活費は水野氏の顕彰会が支援した。
しかし、日本の野球のレベルは高く、目立った成績を残すことができず、昨秋、浜松へ移籍。投球フォームを作り直すところから始めているが、最近、右ひじに痛みを覚える。部長の中村好志さん(51)は「投げ方が悪いから。でも、良くなってきたし、ようやく体もできてきた」と話すが、本人は日本での挑戦に区切りを付け、帰国することも時々、考える。水野氏の三男にあたる高齢の父、龍三郎さん(85)が心配だからだ。
国に戻ったら、家族を支えるため大学に進学し直し、就職することになるが、ひそかに描く夢もある。4年後の東京五輪で、競技種目に野球が復活したら…。「ブラジル代表になって、日本と試合がしたい」。
両親と自分の古里・ブラジル・祖父の国・日本とをつなぐ絆が、五輪でまた強くなる。
■移住100年 父は誇り
人口100万人を擁する南米最大の都市・サンパウロ。意匠を凝らした墓石が並び、地元の美術大生も見学に訪れるという墓地の奥まった一面に、漢字が刻まれた素朴な墓がある。
ここに眠るのは水野龍氏。1908年、神戸港を出た最初の移民船「笠戸丸」で日本人781人をブラジルへと率い、「ブラジル移民の父」と称される人物だ。
「南無妙法蓮華経…」。6月のある日、水野氏の墓前に、イタリア移民の血を引く僧侶、マルコス・コレイアさん(48)の姿があった。水野さんは檀家で、コレイアさんは月命日の前後、墓を訪れ、経を唱えている。
ブラジルに仏教を伝えたのは、笠戸丸に1人だけいた僧侶だったとされ、コレイアさんは、その弟子筋。
「師匠を連れてきてくれたのが水野さん。私が仏教と出会い、こうして供養できるのも、100年を超えた縁です」と語る。
「僕は、父をずっと悪人だと思っていたんです」。サンパウロから南西約350キロのパラナ州クリチバ。ここで生まれ育った水野氏の三男で、日系2世の龍三郎さん(85)は父を語る時、決まって、こう切り出す。
高知県出身の水野氏は、慶應義塾を卒業して仕事を転々とした後、03年に「皇国植民会社」を作った。当時のブラジルは、奴隷解放によりコーヒー農園の働き手が不足。一方、日本では日露戦争後の経済の疲弊や食糧難から、新天地を求めて移住を考える人が大勢いた。
水野氏はその後も日本との間を行き来し、東京・銀座などにコーヒーチェーン店「カフェーパウリスタ」を開店し、ブラジル産のコーヒーを低価格で販売。ハイカラな雰囲気の銀座の店には、芥川龍之介ら多くの文士も出入りし、コーヒーを広めるきっかけとなった。
だが、ブラジルへ渡った移民の中には、苦境に陥る人も少なくなかった。初期の頃、コーヒー農園のコロノ(農業労働者)として雇われた多くは、床板もない掘っ立て小屋同然の施設に押し込められ、農園主らからかねや笛で追い立てられるように働かせられた。
「水野にだまされて、連れてこられた」。龍三郎さんは子供の頃、周囲の移民たちから、そんな言葉を幾度となく浴びせられた記憶が鮮明に残っている。
水野氏はその後、クリチバから北西に約100キロ離れた同州ポンタグロッサに、理想郷を求めて移住した。その資金繰りのために帰国中、第二次世界大戦で連合国側についたブラジルと日本は国交を断絶。終戦から5年後、ようやく戻ることができたが、土地は人手に渡り、水野氏は翌51年、失意のうち91歳で亡くなった。
笠戸丸移民から100年余を経て再評価された父を、「頑固で、子供の目にはとても恐ろしい人に映ったが、決して私欲だけで移民事業を進めたのではなかった」と龍三郎さんは誇りに思う。
龍三郎さんは97年から2年間、出稼ぎのため、妻のヤナギヤミズノ・レジナさん(41)(日系2世)と、生後間もないジョナタンさんを連れて来日し、浜松で暮らした。
そのジョナタンさんが成長し、今度は、日本のプロ野球を目指して再び海を渡ろうと決意。龍三郎さんは、「水野の孫なのだから、恥ずかしいことだけはしないように」と言って送り出した。
日本との間を行き来し、戦中戦後の9年間、ブラジルに戻れなかった父。それだけに、龍三郎さんは「家族はやっぱり一緒に暮らす方がいい。みんなでジョナタンの夢を応援したい」。
息子はブラジルに戻ってもいいと言うが、龍三郎さんは家族を連れ、父の祖国へ渡ることも考えている。