成功は続けることから

オウム

 

開導日扇聖人御教歌
していけばでけていくものでけぬとて
やめたらやめただけのびんばふ(貧乏)

貧乏で苦しいからと、ヤケを起こして仕事をやめてしまえば、余計貧乏になります。どんな事でも根気良く続けていけばかならず芽がでるもの。世法も仏法も同じとお示しの御教歌です。

仏さまのお譬え話ですが、昔竹ヤブの小動物に招かれてお客となったオウムが、いざ家に帰ろうとする日に、竹ヤブが大火事になりました。オウムは、自分の翼をぬらして、その水で火を消そうとしたので、仲間がその無茶をとがめると、「ご恩返しのために、この一生で火を消せなければ、生まれ変わってもかならずやりとげます」と答えたので、天の神が感動をして、雨を降らせたと説かれています。

生まれ変わっても初志を貫こうとしたオウムの話はお話の美化としても、私たちのまわりには、あまりにも続けることの不得手の者が大勢います。職業にしても、2~3年で仕事を変えていれば、いつまでたっても熟練者になれませんから、こちらの要求を通すことができません。

お看経にしても、1月や1年でやめてしまえば、水虫に薬をぬるようなもので、なおったと思うところから再発するように、罪障がまたたくまに出てきてしまいます。「信心は持つにあり」で、根気よく続けること、これが諸願成就の道です。(前進 昭和57年8月号)

 


真似も信心の内

剣豪

開導日扇聖人ご教歌
末法は無智なる故に心にて 出来ぬを所作でするが信心

仏さまのお悟りの法であるお題目のご信心を、理屈がわかったらいたしますと言うのでは、一生かかっても成就する事は出来ない。先づ、真似でも良いからやってみる事、すると善い結果が顕れて、ついには喜んでご奉公できるようになるものだとお示しのご教歌です。

山本周五郎の小説ですが、体が大きく強そうに見える癖に、根っからの弱虫のサムライが、道場破りという珍商売を始めました。門弟の手前天下の豪傑のように振る舞い、堂々と刀をかまえた後で、ガラリと刀を投げ出し、「とても先生にはかないません」と頭を下げれば、気分を良くした先生からご祝儀がいただけるだろうという計算です。これが図にあたって商売繁盛したのですが、思いがけない副産物があって、本人までが堂々とした剣豪になってしまったというのです。それは、何とか格好だけでも強く見せようと古今の名人の真似をしている内に、いつか剣の極意にかなって、腕が上がってしまったのでしょう。

真似でもしつづけていれば真をつかむ良い例です。信者の中にはおだててもすかしてもケロっとしている人がいますが、これでは100年たってもご利益はいただけません。せめて信者らしい真似のできる信者となりましょう。(前進 昭和57年3月号)

 


信心決定で甲斐ある年を

開導聖人御教歌
「罰ですら現世にあたる妙法の つとめは未来豈またんやは」

賞と罰とは、仏の衆生教育法の二面です。子の親として、叱るのとほめるのとどちらを好むかといえば、勿論誉めることであるように、仏も又同様に、衆生に福のご利益を下さることを第一の喜びとされています。それでは、何故仏の好まれないお罰などがあるかといえば、私達は仏果を得る迄は永遠に輪廻転生をくり返す身で、小さな過ち一つと思っても、その苦果を受ける期間が果てしなくながいからです。ですから、仏は涙をのんでお叱りを垂れるのです。

若しも、信心決定をすれば、仏は大変喜ばれて、陰に陽に私たちをお守り下さいます。日扇聖人の別の御教歌に「世の中がくらしにくいとなく人は。わが門人に一人もなし」と説かれています。勿論これは、どんな人にも適切な教えを説いて、物心両面に渡って幸せにされた聖人の教導上の自負の心をうたわれたものですが、お題目を唱える者には、三災七難を離れるご利益があるという仏のみ意を素直にのべられたものでもある訳です。

昨年1年をふり返って、「苦しかったナ」と思える人は幾分懈怠のお叱りを受けた方でしょう。本年は信心決定し、後々まで思い出に残るような生き甲斐のある1年を送りたいものです。(前進 昭和57年1月号)

 
【HPに転載するにあたっての追記】

「三災七難とは」

「三災」とは、世界の破滅期に起こる大の三災と、日常に起きて人々を滅ぼす小の三災があります。『倶舎論(くしゃろん)』という教えによると、大の三災に火災・風災・水災があり、小の三災に穀貴(こっき)・兵革(ひょうかく)・疫病(えきびょう)があります。穀貴とは、五穀の価が異常に高騰(こうとう)する物価騰貴のことであり、兵革は戦争、疫病は伝染病や流行病などのことをいいます。

「七難」とは、法華経によれば(1) 火難,(2) 水難,(3) 羅刹 (らせつ) 難 (悪鬼による災難) ,(4) 刀杖難,(5) 鬼難 (死霊による災難) ,(6) 枷鎖難 (牢獄にとらわれる難) ,(7) 怨賊難とあります。


利益を受けるのには

冬の空

開導日扇聖人ご教歌
「信心は日々にあらたにきよくせば 神の守りも強しとぞきく」

利益とは、梵語ウパカーラの訳で、元来は「仏法から享受される利得」という意味でしたが、転じて、仏や諸天から受ける加護という風に使われるようになりました。

子供が、成績向上して、希望校に入学できるのは、学校即ち先生の教えや教科書をぶらさげて、通学するだけでは望みは達せられません。誰もが使っている教科書を、誰よりも真剣に活用したものが成功しているのです。

信心も全く同様で、修行のない所に利益はありません。お祖師さまは「法華経は我身の上の日記文章なり」と仰せられました。これは、お祖師さまの日常の活動は、法華経に示されたことと一字一句も違わなかったので、私がどんな修行をしたかというような事は、法華経を逆に見てもらえば良く判りますよと、仏使としての自覚をのべられたものです。

これに対して私達の方はといえば、商売繁盛すれば忙しいといって不参し、具合が悪くなればそれどころではないといって怠け、ロクな修行もありません。これでは旨くいく道理がありません。神の守りが得られるよう、善しにつけ悪しきにつけ、励む事が、長期的な幸せをつかむ最善の法であると教えられたものです。(前進 昭和57年2月号より)


常識だけでは救われない

開導聖人ご教歌

「尊像をいきていますとおもはねば 信心するも無益也けり」

日夜にお給仕しているご尊像、ご本尊を生きてまします生身のみ仏と心から信じて敬える人が、真実のお守りのいただける人であるとお示しのご教歌です。

 

幕末の偉人、勝海舟は熱心な日蓮宗の信者として知られていましたが、ある時、門人にむかってうっかりと口をすべらせて、お祖師さまの竜の口の御法難は後生のつくり話らしいと言ったところ、門人が反発して

「先生は真心があれば、天も地も我に従うという信念の方ではないか。凡夫の一心ですら、桑の矢を岩につきさすという不思議な働きをする。ましてや、正法流布のため、名誉も命もいらないという大聖の一心によるところ、少々の光り物や波風が起こっても異とするに足りない。一切衆生のために身をささげている人を凡夫の小さな了見で批判するのは大間違いだ」

これにはさすがの海舟先生も一言もなかったとの事です。

この話のように、ご尊像やご本尊を凡夫の小さな了見で、木切れ紙きれのように見ることは、まことに浅はかなことです。私たちの知恵分別で全てのことが割り切れるのなら、この世に何の不幸もあるわけがないのですから、神仏の不可思議力を畏れ、妙のお守りをいただく様につとめなければなりません。(前進 昭和56年8月号)